日野原重明100年史
日野原重明 100年史
- 1911年明治44年10月4日
山口市で生まれる、6人兄弟の次男。
明治の年号にちなみ兄弟全員の名前に「明」の字が入っている。
神戸へ引越し。 - 1915年大正4年7歳でキリスト教の洗礼を受ける。
神戸市立諏訪山小学校(現神戸市立こうべ小学校)に入学。
4年のとき急性腎臓炎のため休学する。
療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始める。 - 1923年大正12年
- 1929年昭和4年
- 1932年昭和7年
京都帝大医学部 現役合格。
学費は教会関係者の寄付を仰いだ。
結核にかかり休学、父が院長を務める広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間闘病生活を送る。 - 1934年昭和9年京都帝国大学医学部2年に復学。
- 1937年昭和12年京都帝国大学医学部を卒業し、京都帝国大学医学部三内科副手(無給)に就任(1939年まで)。
真下俊一教授の第三内科(循環器内科)に入局。
徴兵検査丙種合格。
微小マイクロフォンを自作(アメリカ医学専門誌に掲載) - 1938年昭和13年北野病院や京都病院(現独立行政法人国立病院機構京都医療センター)で勤務。
- 1939年昭和14年京都帝国大学医学部大学院博士課程(心臓病学専攻)に進学。京都大学YMCA地塩寮に住む。
- 1941年昭和16年内科医となる。
- 1942年昭和17年教会の日曜学校で教師をしている女性と3ヶ月交際し、結婚。
- 1943年昭和18年京都帝国大学医学博士の学位を取得。
音楽好きだったため、博士論文は「心音の研究」。
心臓が収縮するとき低音がなることを発見し、米国の著名な医学雑誌に投稿した。 - 1945年昭和20年志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官。
戸塚海軍病院や海軍衛生学校のある横浜市戸塚で訓練を受けるが、急性腎臓炎のため入院となり除隊。
日曜は午前中教会へ。
午後は無医村の無料診療へ。 - 1951年昭和26年ウィリアム・オスラー医師の文献を通してアメリカ医学を知り衝撃を受ける。
アトランタ市エモリー大学医学部へ1年留学、ポール・ビーソン教授に師事。メイヨー・クリニックでホリスティック医療に触れる。
アメリカ留学の話youtube動画(知らないことは知らないと言いなさい) - 1954年昭和29年日本発の人間ドック開設メンバーとして奔走。
- 1970年昭和45年3月31日よど号ハイジャック事件に遭遇3晩4日拘束された。
事件に遭ったのを契機に自己の内科医としての名声を追求する生き方をやめる。
- 1973年昭和48年(財)ライフプラニングセンター設立
- 1974年昭和49年聖路加看護大学学長就任
- 1988年昭和63年聖路加看護大学に国内初の大学院博士課程を設置。
- 1992年平成4年聖路加国際病院院長就任病院新築の指揮をとる。
- 1993年平成5年勲二等瑞宝章受章。
- 1995年平成7年地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として機能した。
- 1996年平成8年財団法人聖路加国際病院理事長に就任。
- 1998年平成10年トマス・ジェファーソン大学人文科学名誉博士。
- 1999年平成11年文化功労者 選出
- 2000年平成12年9月「新老人の会」結成
『葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜』初公演 - 2001年平成13年3月『生きかた上手』出版、総計350万部のミリオンセラーに。
- 2002年平成14年マックマスター大学名誉博士。
- 2003年平成15年朝日新聞社朝日社会福祉賞受賞
- 2005年平成17年NHKプロジェクトX~挑戦者たち「地下鉄サリン 救急医療チーム 最後の決断」放送。
文化勲章を授与 - 2007年平成19年日本ユニセフ協会の大使に任命
- 2008年平成20年「いま伝えたい大切なこと いのち・時・平和」NHK出版神戸市神戸大使。
- 2010年平成22年『葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜』アメリカ合衆国ニューヨーク市のオフ・ブロードウェイで公演。
10月14日、『徹子の部屋』(テレビ朝日)にゲスト出演。 - 2011年平成23年NHKスペシャル「日野原重明 100歳 いのちのメッセージ」放送。
- 2017年平成29年7月18日 105歳
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